社会福祉法人創思苑の理念について
「地域で共に生きる」この立場は今でこそほとんどの人が認めるところとなっているが、私たちが「パンジー」の前身である自立の家「つばさ」を設立した1985年当時には必ずしもメジャーな考え方にはなっていなかった。1976年の全障連(全国障害者解放運動連絡会議)の結成時ですら施設や養護学校に反対する私たちの主張は障害者問題に多少なりとも関心を持つ大多数の人々からも厳しい非難にさらされていた。そうした状態は79年の「養護学校義務化阻止闘争」の頃にも81年の「国際障害者年」の年になってもそれほど大きな変化はみられなかったように思う。すなわち障害者は依然として「施設で暮らすのが幸せ」とみなされ、「障害を軽減・克服する教育の場には、養護学校が最適」と、一方的に決めつけられる場合が多かったのである。
ところで全障連結成の当時、私たちは作業所作りにはむしろ否定的な見解をとっていた。あらゆる形態の隔離に反対し地域で生き続けることにこだわってきた私たちにとって、多くの障害者を一カ所に集めることは「施設の焼き直しになるのでは」と思えてならなかったのである。しかしながら80年代に入って、「ノーマライゼーション」の思想が次第に広がりを見せ始めるにつれて、「点」の集合としての告発型の運動は逆にインパクトを失うようになり、私たち自らも運動方針に行き詰まりを感じるようになってきていた。ちょうどそんな時期だっただけに、私たちは作業所運動のもりあがりに大きな期待と展望を見いだしかけていた。点を線に結びそれらをネットワーク化する、そうした私たちの戦略はかなりの成果をあげるだろうと思えたのである。言うまでもなく私たちの目標は、単に多くの障害者を結集させることにあったのではなく、ましてや作業所という狭い空間で内職や作業訓練に励むことでもなかった。私たちにとって作業所は障害者が地域で自立を促進するための活動拠点の一つであり、コミュニティーや行政に働きかけて社会を変革していくための運動拠点なのであった。
しかし、如何せん、私たち障害者の多くは金儲けがあまりにへたである。生来の才能や地域的条件にでも恵まれればともかく、それぞれの作業所の担い手がどのような思いを抱いていたにせよ、客観的には資本主義経済システムの隙間からもれだす僅かばかりの「おこぼれ」をどうにかやりくりしているに過ぎない。その意味では、当時の「パンジー」の法人化の選択は、ある種ぎりぎりの「賭」だったのかもしれない。厚生省や大阪府の監査にきちんと対応できるのか、運動のエネルギーが停滞するのではないか、メンバーやその保護者、職員などの意識が自己防衛的、安住的になりはしないか等々の不安を一杯に内包したスタートだったのである。もちろん、そうした懸念は今なお払拭しえてはいないように思われるし、実際に運動を担っている私たちは絶えずそんな「落とし穴」に落ち込まぬようにするための自己点検を忘れてはならない。
いずれにせよ、私たちは既に「法人化」の道に足を踏み込んでしまった。もはやその是非を論じたり、もっともらしい言い訳に時間を費やすべき時ではない。時々は立ち止まって自らをチェックすることも必要だが、基本的にはあくまで前進あるのみである。さまざまな矛盾が次々と生じてくるのは当然である。しかし私たちはその一つ一つと辛抱強くつきあうしかない。短気をおこして矛盾を強引に排除しようとすれば、必ずや組織の分裂や解体を引き起こすことになろう。ある時は戦闘的に闘い、ある時は大いに騒ぎ、そしてある時はため息をつきながらぼやきあい、そんなスタイルでもいいではないか。どうせ、私たち一人一人の寿命もたかがしれているのだから・・。
さて、21世紀を目前にして時代は確かに大きく変化しつつある。福祉の基礎構造改革や介護保険制度の導入、福祉サービスの評価基準と地域福祉の権利擁護システム等々、それらの是非はともかくとして、情勢は確実に動いているのである。多くの既成団体が活力を失い、その存在意義さえ危ぶまれつつある。障害者団体もまた同様である。私自身はなにもこれまで掲げてきた基本原則や蓄積してきた内容が、全て時代遅れになったなどと言うつもりはない。まずなによりも、非常に古めかしくなった発想や活動スタイルから脱皮することが必要である。なにしろ日本国の長たる者が一方で「IT革命」を口にしながらもう一方で「神の国」だの「教育勅語」だのを振りかざす始末なのである。現在この国を動かしている人々は、一体どんな社会作りをめざそうとしているのか。立派なビジョンやスローガンは数多くばらまかれているが、それを具現化するための戦略や方針もなければ、ましてやそれを実行する人材も皆無に等しいように思われる。
今、障害者運動は、他のさまざまな運動と比較してもはるかに元気である。無論、ぶ厚い壁は今なお存在しているが、それに立ち向かうだけのエネルギーも十分に持ち合わせている。新しい人材もそれなりに育っている。求められるのはやはり「力」である。それも単なる「物理的力」の意味ではなく「花も実もある力」である。私たちの運動は総じて「花」はかなり咲かせているようだが、どうも「実」のほうが十分についているとは言い難い。そぞれが、「私たちの花がきれいだよ」と自画自賛しているようだが、それらが十分に「実」をあげているとは言えないように思う。そのためにも、実効性のあるネットワーク作りは必須の課題である。単なる「おつきあい」や「交流」ではもはや力にならない。もっと生産的な議論を継続させそれぞれが知恵と工夫と力量を出し合った連携体制を構築することである。旧来の諸団体に抗して私たちの運動をより有効たらしめるためにも、大胆でしかも謙虚な実践の積み重ねが今ほど求められている時はない。
私たち「パンジー」の取り組みも7年を経過し、ようやく軌道に乗りつつある。知的障害を持つ当事者の自立も、少しずつではあるが前進してきている。しかし彼らを支援するための方策に関しては、今だ手探りの状態である。今回のパンフレットに紹介した内容について、積極的なご意見やご批判を頂ければ幸いである。
創思苑理事 楠敏雄
(『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
無認可作業所から法人設立へ
1986年、「障害者も健常者も地域であたりまえに生きていくのだ」という熱い思いとともに自立の家「つばさ」は生まれた。
東大阪市では、普通学校への就学を求めた闘いが展開され、親が希望すれば、ほぼ保育所にも普通学級にも入れるのが現状だったが、卒業後の進路については、親の会が運営する作業所が数カ所あるだけだった。
自立の家「つばさ」は、代表を障害者とし、地域で生きていくことさえ一致できれば、障害の種別や程度を問わなかった。このことは結果として、「重度」の人や「関わりが難しい」人が多く集まることにつながっていった。
生活面では、3人の身体障害者と1人の知的障害者が次々に親元を離れて自立生活を始めた。そして、1991年に知的障害者のグループホームを開設するにあたり、身体障害者が自立生活を始める際に利用できた制度を知的障害者の場合も利用しようと考えた。しかし、身体障害者の場合は難なく利用できた制度が、知的障害者の場合はあらゆるところで思わぬ壁にぶつかってしまった。まず、グループホームでの生活保護受給を認められないと言われた。その当時、グループホームの制度が就労している軽度の障害者を対象としたものであり、重度障害者の入居を予測していなかったようだ。次に生活保護の他人介護料を申請した際、「手足が動くじゃないか」と言われ、知的障害者に介護は必要ないと、認められなかった。
何度にもおよぶ話し合いの結果、生活保護を受給してグループホームに入居することができ、他人介護料の受給やホームヘルパーの利用もできるようになった。そして、気がついてみると、知的障害者としてグループホームで上記の制度の利用は、全国で初めてのケースとなっていた。
1990年頃より、車いすの人たちが4〜5人に、自閉的傾向を持つ人たちと重複障害の人たちで、10坪ばかりのスペースでの日中の活動は、飽和状態に達してきていた。そして、4人の自立障害者とグループホームの介護のため、専従は週に1回は泊まり介護に入っていた。そんな中で、健常者の賃金は生活保護の水準以下だった。
日々の現状は維持していけたものの、地域での自立生活を支援するのは、介護体制のシステム化を計らないと到底困難と思われた。その大きな要因は、グループホームの介護者の質の確保が難しいことだった。しかし、その問題を打開していくには、職員が長続きしないことがあたりまえになっている無認可作業所の力量はあまりにも小さすぎた。
こうした中で、法人化することにより財政基盤の確立と運営の安定をはかり、知的障害者の地域での自立を進めようと考えるに至った。
林 淑美
(『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
東大阪市では、普通学校への就学を求めた闘いが展開され、親が希望すれば、ほぼ保育所にも普通学級にも入れるのが現状だったが、卒業後の進路については、親の会が運営する作業所が数カ所あるだけだった。
自立の家「つばさ」は、代表を障害者とし、地域で生きていくことさえ一致できれば、障害の種別や程度を問わなかった。このことは結果として、「重度」の人や「関わりが難しい」人が多く集まることにつながっていった。
生活面では、3人の身体障害者と1人の知的障害者が次々に親元を離れて自立生活を始めた。そして、1991年に知的障害者のグループホームを開設するにあたり、身体障害者が自立生活を始める際に利用できた制度を知的障害者の場合も利用しようと考えた。しかし、身体障害者の場合は難なく利用できた制度が、知的障害者の場合はあらゆるところで思わぬ壁にぶつかってしまった。まず、グループホームでの生活保護受給を認められないと言われた。その当時、グループホームの制度が就労している軽度の障害者を対象としたものであり、重度障害者の入居を予測していなかったようだ。次に生活保護の他人介護料を申請した際、「手足が動くじゃないか」と言われ、知的障害者に介護は必要ないと、認められなかった。
何度にもおよぶ話し合いの結果、生活保護を受給してグループホームに入居することができ、他人介護料の受給やホームヘルパーの利用もできるようになった。そして、気がついてみると、知的障害者としてグループホームで上記の制度の利用は、全国で初めてのケースとなっていた。
1990年頃より、車いすの人たちが4〜5人に、自閉的傾向を持つ人たちと重複障害の人たちで、10坪ばかりのスペースでの日中の活動は、飽和状態に達してきていた。そして、4人の自立障害者とグループホームの介護のため、専従は週に1回は泊まり介護に入っていた。そんな中で、健常者の賃金は生活保護の水準以下だった。
日々の現状は維持していけたものの、地域での自立生活を支援するのは、介護体制のシステム化を計らないと到底困難と思われた。その大きな要因は、グループホームの介護者の質の確保が難しいことだった。しかし、その問題を打開していくには、職員が長続きしないことがあたりまえになっている無認可作業所の力量はあまりにも小さすぎた。
こうした中で、法人化することにより財政基盤の確立と運営の安定をはかり、知的障害者の地域での自立を進めようと考えるに至った。
林 淑美
(『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
posted by パンジー at 21:21
| 理念
だれもが抑圧されない社会の創造
法人化への動きを始めて2年後の1993年3月、知的障害者通所授産施設クリエイティブハウス「パンジー」はオープンした。以上の経過を見てもわかるように、オープンしたパンジーがめざしたものは、「知的障害者が地域で自立生活を送るためのシステム作り」であり、目標に向けてさまざまな新しい試みを続けてきた。そして、2000年4月、もう一つの通所授産施設と自立生活支援センター「わくわく」をたちあげた。これからの方針を考えるにあたり、私たちがめざしてきたことを改めて確認しておきたいと思う。
私たちが生活してる近代社会は、能力主義の社会である。能力主義社会では障害者は差別され排除される。そして、労働力を持つ可能性のある障害者のみが援助の対象となってきた。また、障害者は人々からスティグマ(恥辱の烙印)を付与され、憐れみや蔑みの対象とされてきた。こういう社会のあり方を変えようとしたのが、障害者解放運動である。日本の障害者解放運動は、自立の思想と差別のない社会の構築と、障害者の否定につながる優性思想との対決を非常に重要なものと捉えてきた。それは、それまでの障害者の生き方が専門家によって決められ、障害を克服し健常者に近づくことのみが目標とされ、克服できない者は施設に追いやられてきたためである。
私たちは、施設に対置するものとして「自立」という言葉を簡単に使いがちであるが、自立とは、障害者が施設から出たり、家族から離れて一人で生活するという障害者自身の努力で成り立つ生活様式だけを意味するものではない。障害者が人間として認められ、自己決定権が保障されることと、社会を構成する人たちが、「一人ひとりがかけがえのない存在である」という価値観を共有することが必要である。それは、個人の多様性を認め、だれもが抑圧されない関係性を保つことができる社会の創造であるとも言えよう。
林 淑美
(『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
私たちが生活してる近代社会は、能力主義の社会である。能力主義社会では障害者は差別され排除される。そして、労働力を持つ可能性のある障害者のみが援助の対象となってきた。また、障害者は人々からスティグマ(恥辱の烙印)を付与され、憐れみや蔑みの対象とされてきた。こういう社会のあり方を変えようとしたのが、障害者解放運動である。日本の障害者解放運動は、自立の思想と差別のない社会の構築と、障害者の否定につながる優性思想との対決を非常に重要なものと捉えてきた。それは、それまでの障害者の生き方が専門家によって決められ、障害を克服し健常者に近づくことのみが目標とされ、克服できない者は施設に追いやられてきたためである。
私たちは、施設に対置するものとして「自立」という言葉を簡単に使いがちであるが、自立とは、障害者が施設から出たり、家族から離れて一人で生活するという障害者自身の努力で成り立つ生活様式だけを意味するものではない。障害者が人間として認められ、自己決定権が保障されることと、社会を構成する人たちが、「一人ひとりがかけがえのない存在である」という価値観を共有することが必要である。それは、個人の多様性を認め、だれもが抑圧されない関係性を保つことができる社会の創造であるとも言えよう。
林 淑美
(『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
posted by パンジー at 20:24
| 理念
普通の施設にしないことの意味
パンジーは、障害者の隔離政策に異議を唱え、地域であたりまえに生きていくことをめざしてきた団体である。そして、パンジーを始めるにあたって、「普通の施設にしない」ために施設に対する価値観と合理性をひっくり返し、さまざまなことを試みた。
ハード面で施設の施設たるものを排した
それは、地域の人たちを容易に寄せつけない白い壁面と、鍵のある部屋と、小さい窓から来意を告げなければならない事務室の位置である。部屋には鍵がなく玄関は自動ドアのため、どこへでも自由に行くことができる。最初の頃、不安を感じた保護者から監視カメラをつけて欲しいなどの要望がでた時期もあった。また、事務室を2階においたため、来訪者がまず声をかけるのは、知的障害を持つ当事者の人たちになることが多くなった。そして、地域の人が気軽に出入りできる雰囲気にしたため、従来の施設をイメージして初めて訪れる人は、パンジーだと思わず、よく前を通り過ぎた。
知的障害者が主役である
理事や職員のための施設ではない。施設の運営についても、できるだけ当事者の意見が反映できるようにした。そのため、当事者の会議として「どらえもん会」をおき、理事、職員、当事者、保護者で構成される運営委員会にはどらえもん会役員として出席し、平等な発言と議決の権利を持つシステムとした。会議の内容がおもしろくないのか、最近は、ほとんど参加しなくなっている。再度、出席することの意味を伝えたいと思っている。
へたな指導だったらしない方がまし
当時者と職員の立場の違いは認識しなければならないが、指導する側とされる側の壁をできるだけ薄くするよう試みた。例えば、先生と呼んでもらわない、当時者も職員も呼んでもらいたい名前で呼びあう、ユニフォームを着ない等である。また、職員は悪しき専門家に陥らないため、最初の2年間は、事務や食事のメニュー作りやガイドヘルパーのコーディネートなど、あらゆることをこなした。そして、指導ではなく、あたりまえのつきあいを大切にした。
とにかく外に出る
施設内でできることが、外ではできることにはつながらないことが多い。そのため、作業より外に出て経験から学ぶことを大切にした。パンジーを訪れた人がとまどうのは、作業時間にたばこを吸ったりコーヒーを飲んでいることや、昼食後にコンビニや喫茶店に行ったりすること等である。これは、外に出る経験を大切にしてきた結果であるが、反面、時間にルーズになった時期もあった。現在は、時間を、集団で活動していくためのお互いのルールとして捉え、みんなで声をかけあっている。
林 淑美
(『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
ハード面で施設の施設たるものを排した
それは、地域の人たちを容易に寄せつけない白い壁面と、鍵のある部屋と、小さい窓から来意を告げなければならない事務室の位置である。部屋には鍵がなく玄関は自動ドアのため、どこへでも自由に行くことができる。最初の頃、不安を感じた保護者から監視カメラをつけて欲しいなどの要望がでた時期もあった。また、事務室を2階においたため、来訪者がまず声をかけるのは、知的障害を持つ当事者の人たちになることが多くなった。そして、地域の人が気軽に出入りできる雰囲気にしたため、従来の施設をイメージして初めて訪れる人は、パンジーだと思わず、よく前を通り過ぎた。
知的障害者が主役である
理事や職員のための施設ではない。施設の運営についても、できるだけ当事者の意見が反映できるようにした。そのため、当事者の会議として「どらえもん会」をおき、理事、職員、当事者、保護者で構成される運営委員会にはどらえもん会役員として出席し、平等な発言と議決の権利を持つシステムとした。会議の内容がおもしろくないのか、最近は、ほとんど参加しなくなっている。再度、出席することの意味を伝えたいと思っている。
へたな指導だったらしない方がまし
当時者と職員の立場の違いは認識しなければならないが、指導する側とされる側の壁をできるだけ薄くするよう試みた。例えば、先生と呼んでもらわない、当時者も職員も呼んでもらいたい名前で呼びあう、ユニフォームを着ない等である。また、職員は悪しき専門家に陥らないため、最初の2年間は、事務や食事のメニュー作りやガイドヘルパーのコーディネートなど、あらゆることをこなした。そして、指導ではなく、あたりまえのつきあいを大切にした。
とにかく外に出る
施設内でできることが、外ではできることにはつながらないことが多い。そのため、作業より外に出て経験から学ぶことを大切にした。パンジーを訪れた人がとまどうのは、作業時間にたばこを吸ったりコーヒーを飲んでいることや、昼食後にコンビニや喫茶店に行ったりすること等である。これは、外に出る経験を大切にしてきた結果であるが、反面、時間にルーズになった時期もあった。現在は、時間を、集団で活動していくためのお互いのルールとして捉え、みんなで声をかけあっている。
林 淑美
(『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
posted by パンジー at 19:29
| 理念
働くことの意味
さて、現代社会で「働く」とは何だろう。知的障害者にとって、能力でその人をはかられてしまう労働は、そんなにたやすいものではない。しかし、知的障害者の大部分が「何をしたい?」と聴くと、「働きたい」と答える。
また、ピープルファーストの実行委員会でサングループ事件の学習会をしている席上、それぞれがどんな労働条件で働いているかを話しあっている時のことだった。「○○君の職場はサングループと似てるの?」と聴いたのをきっかけとして、朝早くから夜遅くまで働いたこと、機械でけがをしてもがんばったこと、いじめられたことなどが次から次に話され、「自分だけがつらい思いをしていると思っていたが、みんな経験しているんだ。ここに仲間がいるんだ」と感じあったことがあった。
また、パンジーの当事者の生田さんは働いていた時のことを以下のように振り返っている。「学校をあがってうどん屋の出前持ちをしました。階段でゆれて汁がこぼれて怒られて首になりました。次はぶた山でえさやりの仕事をしました。21才の時、東大阪の石けん工場に来ました。石けん工場の2階で住みました。時計や電話のかけ方は社会に出てから覚えました。給料は安かったです。初めは10,000円でした。最後は68,000円になりました。社長のしんせきの職人が暴力をふるったりしました。預けていたお金を盗られたこともあります。事務員のおばちゃんや食堂のおばちゃんの世話になりました。お金の使い方がわからんかったからお金が残りました。貯金したお金で親の葬式をだしました。えらそうにゆわれても20年間働きました。みんなより給料が安かったので、ぼくは値打ちがないと思いました。こきつかわれたと思っています。」
働いていること、結婚していることが一人前とみなされている社会で、知的障害者は、過去もそして現在も、「一人前」でないと思われてきた。それでも、多くの知的障害者は「働きたい」と思っている。それは、奪われてきたものを、しんどくても辛くてもがんばることで、自らの存在意義を証明しようとしているように思える。
しかし、運良く働き続けることができたとしても、そこだけが社会との接点であるならあまりにも孤立無援すぎる。グチを言い合ったり、勇気づけあったりする仲間や、信頼して相談できる人の存在は不可欠である。また、自信を持って「働きたくない」と言う人もいる。そんな人は、働いた経験を持ち、ピープルファーストの役員などを経験し、社会や仲間の中で自らの役割をみつけ始めたと感じている人であるのを考える時、権利擁護に関係する活動も、労働として位置づける必要があると思う。
パンジーでは、知的障害者が主な活動の場とする授産部門は、すべてのベースであり、当事者の自立に向けての出発点である。
1ヶ月一生懸命働いて数千円という賃金はおかしい。しかし、利潤を追求すれば、納期に迫られて重度の人がおきざりになったり、職員が残業して仕上げなければならない現実がある。あれこれ考えても、矛盾が多すぎる。そのため、働いて賃金を得ることよりも、作った製品がお金に代わり、賃金となる過程が実感できること、仕事を通して自信がもてることを大切にしてきた。最初に仕事があって当事者を選別するのでなく、その人にあった仕事をみつけるよう努力してきた。
一般就労への取り組みは、いくつかの試みもまだ功を奏していない。パンジーの仕事をしながら行う就労支援には限界がある。トラブルが起こってから対処することになってしまいがちだ。その人に応じた就労支援体制を作っていかなければならないと感じる。
林 淑美
『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
また、ピープルファーストの実行委員会でサングループ事件の学習会をしている席上、それぞれがどんな労働条件で働いているかを話しあっている時のことだった。「○○君の職場はサングループと似てるの?」と聴いたのをきっかけとして、朝早くから夜遅くまで働いたこと、機械でけがをしてもがんばったこと、いじめられたことなどが次から次に話され、「自分だけがつらい思いをしていると思っていたが、みんな経験しているんだ。ここに仲間がいるんだ」と感じあったことがあった。
また、パンジーの当事者の生田さんは働いていた時のことを以下のように振り返っている。「学校をあがってうどん屋の出前持ちをしました。階段でゆれて汁がこぼれて怒られて首になりました。次はぶた山でえさやりの仕事をしました。21才の時、東大阪の石けん工場に来ました。石けん工場の2階で住みました。時計や電話のかけ方は社会に出てから覚えました。給料は安かったです。初めは10,000円でした。最後は68,000円になりました。社長のしんせきの職人が暴力をふるったりしました。預けていたお金を盗られたこともあります。事務員のおばちゃんや食堂のおばちゃんの世話になりました。お金の使い方がわからんかったからお金が残りました。貯金したお金で親の葬式をだしました。えらそうにゆわれても20年間働きました。みんなより給料が安かったので、ぼくは値打ちがないと思いました。こきつかわれたと思っています。」
働いていること、結婚していることが一人前とみなされている社会で、知的障害者は、過去もそして現在も、「一人前」でないと思われてきた。それでも、多くの知的障害者は「働きたい」と思っている。それは、奪われてきたものを、しんどくても辛くてもがんばることで、自らの存在意義を証明しようとしているように思える。
しかし、運良く働き続けることができたとしても、そこだけが社会との接点であるならあまりにも孤立無援すぎる。グチを言い合ったり、勇気づけあったりする仲間や、信頼して相談できる人の存在は不可欠である。また、自信を持って「働きたくない」と言う人もいる。そんな人は、働いた経験を持ち、ピープルファーストの役員などを経験し、社会や仲間の中で自らの役割をみつけ始めたと感じている人であるのを考える時、権利擁護に関係する活動も、労働として位置づける必要があると思う。
パンジーでは、知的障害者が主な活動の場とする授産部門は、すべてのベースであり、当事者の自立に向けての出発点である。
1ヶ月一生懸命働いて数千円という賃金はおかしい。しかし、利潤を追求すれば、納期に迫られて重度の人がおきざりになったり、職員が残業して仕上げなければならない現実がある。あれこれ考えても、矛盾が多すぎる。そのため、働いて賃金を得ることよりも、作った製品がお金に代わり、賃金となる過程が実感できること、仕事を通して自信がもてることを大切にしてきた。最初に仕事があって当事者を選別するのでなく、その人にあった仕事をみつけるよう努力してきた。
一般就労への取り組みは、いくつかの試みもまだ功を奏していない。パンジーの仕事をしながら行う就労支援には限界がある。トラブルが起こってから対処することになってしまいがちだ。その人に応じた就労支援体制を作っていかなければならないと感じる。
林 淑美
『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
posted by パンジー at 18:35
| 理念
支援することの意味
パンジーは、知的障害者が「これが自分の生活だ!」と誇りを持つ生き方ができるように支援したいと思ってきた。そうした時、職員に要求されるのは、障害の理解と社会生活を営む上での生き難さへの支援と当事者のエンパワメントへの支援であると思う。
障害の理解と生き難さへの支援
しかし、パンジーの開所当初、職員は当事者の障害や個性の多様性に対応できず、よく混乱した。それは、「あるがままに受け入れる」と「見せかけのやさしさ」の違い、そして、「あるがままに受け入れる」と「何もしなくていいこと」の違いの混乱に思えた。この違いを言語化しない限り、職員に伝わらない。
迷った末に、東大阪市療育センターの施設長であった中新井さんに現場に入ってもらい、気づいたことを言語化することをお願いする。その後、1週間に1日、職員は中新井さんと共に当事者に関わり、ミーティングを持つことを続けている。そして、作業室に入ることができなかった人が作業ができるようになり、日常の行動も落ち着いてきた。それとともに、当事者の自立に向けて一つの要となる保護者の安心感を得ることができるようになった。
反面、職員は、施設という限られた空間における指導に自らのアイデンティティーをみつけたり、指導する、指導される関係の固定化にともすると陥りやすい立場にいることを、十分自覚しなければならない。
当事者のエンパワメントへの支援
パンジーがオープンした年は、カナダで開催されたピープルファースト世界大会(知的障害をもつ当事者の世界大会)に初めて参加した年である。その後、何度かカリフォルニアに研修に行く中で、ピープルファースト運動の
理念をどう当事者の活動としていくのか、試行錯誤を重ねてきた。その間、「元気のでる話」や、当事者の講演、サングループ事件をテーマにした「たちあがろう」等を、当事者の活動として作り出してきた。(後述)これらの活動は「自分に自信を持つことと、仲間どうし支えあうこと」をめざしたものである。
また、中新井さんに現場に入ってもらい始めたのと同じ時期に、身体障害者をピア・カウンセラーとして、ピア・カウンセリングを始めている。それは、知的障害者の自立にいたる過程について、障害者解放運動を担ってきた障害者や共生社会をめざす学者である理事、福祉に携わる専門家、ピア・カウンセラーの身体障害者、障害児・者の親が、それぞれの立場からビジョンを語った時期でもあった。立場が違えば、当然意見も違う。そういう状況で、現場を担う職員は、時には手厳しい指摘を受けて感情を揺さぶられながらも、選択し実践してきたのだと思う。
そして、職員の支援についての思いは、次のような言葉で表される。
「いろんな考えあるけど、とにかく、これ、やってみよ。あかん時は、みんなで考えよ。できんかったことを、当事者の障害や親のせいにだけはせんとこ。みんなで、助けあおうや。」
振り返ってみると、その時々に必要性を感じて始めた事が、今、一本の線としてつながってきている。
林 淑美
(『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
障害の理解と生き難さへの支援
しかし、パンジーの開所当初、職員は当事者の障害や個性の多様性に対応できず、よく混乱した。それは、「あるがままに受け入れる」と「見せかけのやさしさ」の違い、そして、「あるがままに受け入れる」と「何もしなくていいこと」の違いの混乱に思えた。この違いを言語化しない限り、職員に伝わらない。
迷った末に、東大阪市療育センターの施設長であった中新井さんに現場に入ってもらい、気づいたことを言語化することをお願いする。その後、1週間に1日、職員は中新井さんと共に当事者に関わり、ミーティングを持つことを続けている。そして、作業室に入ることができなかった人が作業ができるようになり、日常の行動も落ち着いてきた。それとともに、当事者の自立に向けて一つの要となる保護者の安心感を得ることができるようになった。
反面、職員は、施設という限られた空間における指導に自らのアイデンティティーをみつけたり、指導する、指導される関係の固定化にともすると陥りやすい立場にいることを、十分自覚しなければならない。
当事者のエンパワメントへの支援
パンジーがオープンした年は、カナダで開催されたピープルファースト世界大会(知的障害をもつ当事者の世界大会)に初めて参加した年である。その後、何度かカリフォルニアに研修に行く中で、ピープルファースト運動の
理念をどう当事者の活動としていくのか、試行錯誤を重ねてきた。その間、「元気のでる話」や、当事者の講演、サングループ事件をテーマにした「たちあがろう」等を、当事者の活動として作り出してきた。(後述)これらの活動は「自分に自信を持つことと、仲間どうし支えあうこと」をめざしたものである。
また、中新井さんに現場に入ってもらい始めたのと同じ時期に、身体障害者をピア・カウンセラーとして、ピア・カウンセリングを始めている。それは、知的障害者の自立にいたる過程について、障害者解放運動を担ってきた障害者や共生社会をめざす学者である理事、福祉に携わる専門家、ピア・カウンセラーの身体障害者、障害児・者の親が、それぞれの立場からビジョンを語った時期でもあった。立場が違えば、当然意見も違う。そういう状況で、現場を担う職員は、時には手厳しい指摘を受けて感情を揺さぶられながらも、選択し実践してきたのだと思う。
そして、職員の支援についての思いは、次のような言葉で表される。
「いろんな考えあるけど、とにかく、これ、やってみよ。あかん時は、みんなで考えよ。できんかったことを、当事者の障害や親のせいにだけはせんとこ。みんなで、助けあおうや。」
振り返ってみると、その時々に必要性を感じて始めた事が、今、一本の線としてつながってきている。
林 淑美
(『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
posted by パンジー at 17:40
| 理念
パンジーにいることの意味
さまざまな立場の違いはあるものの、「施設は嫌いだ」という思いでは一致することのできる人達がつくった知的障害者の通所授産施設。そこでパンジーに思いえがいたのは、知的障害者の活動と社会を変えていくための活動のより所となる「拠点」であると言えよう。
知的障害者は、自分の思いを伝えるのが苦手な人が多い。また、したい事があっても、それを実現するための方法がわからず、あきらめてしまう人も多い。そういう人達が、地域に点として存在していたのが、パンジーに通うことによって自信をつけ、仲間とつながり、講演などで社会に発信する姿をみるのは頼もしい。そして、次々に自立生活を始めている。パンジーの7年間は、当事者にとっても、職員にとっても、新しい関係や活動を試み、自信を持つ時期だったのかもしれない。
反面、「パンジーで力をためて外へ出ていく」という面では、依然としてたち遅れている。これからは、知的障害者がその人なりのやり方で、社会の中で位置と役割を持つための活動に重点をおいていきたいと思う。
林 淑美
(『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
知的障害者は、自分の思いを伝えるのが苦手な人が多い。また、したい事があっても、それを実現するための方法がわからず、あきらめてしまう人も多い。そういう人達が、地域に点として存在していたのが、パンジーに通うことによって自信をつけ、仲間とつながり、講演などで社会に発信する姿をみるのは頼もしい。そして、次々に自立生活を始めている。パンジーの7年間は、当事者にとっても、職員にとっても、新しい関係や活動を試み、自信を持つ時期だったのかもしれない。
反面、「パンジーで力をためて外へ出ていく」という面では、依然としてたち遅れている。これからは、知的障害者がその人なりのやり方で、社会の中で位置と役割を持つための活動に重点をおいていきたいと思う。
林 淑美
(『“自己実現を展く環境”を創る』より転載)
posted by パンジー at 16:42
| 理念
1991-09-27
創思苑のめざすもの
現在、地球上には、全人口の10分の1にものぼる障害者が生存していると言われています。そして、それらのおよそ3分の2がアジアとアフリカに集中しており、その多くがきわめて厳しい差別と貧困、さらには死の危険にさらされています。
一方、今や世界有数の経済大国と言われる日本においても、障害者に対する差別は根深く存在しています。1981年の「国際障害者年」以降、障害者が健常者と共に地域社会で生きることをめざすノーマライゼーションの思想は着実なひろがりをみせつつありますが、それを裏づける為の制度的・財政的保障は未だ不十分と言わざるをえません。
1986年に東大阪市の中地区でスタートした自立の家「つばさ」は、地域の一般校や養護学校を卒業した障害者が、孤立を余儀なくされている現状をふまえ、障害者と健常者が地域で共に働き、一般就労への準備を整え、さらには誰もが安心して暮らせる差別の無い地域社会をめざして活動を続けてきました。さまざまな活動の積み重ねの結果、地域の人々の障害者に対する理解は、徐々にではあれ深まってきているように思われます。また仲間達の自立に向けた意欲や自信も増し、今では4人の障害者が親元から離れて自立生活を送り、それとは別に、4人の知的障害と言われる仲間がグループホームを利用して共同生活を開始しています。
社会福祉法人創思苑は、自立の家「つばさ」の6年間の活動の基盤の上に、「つばさ」の活動の理念をさらに発展させ実現させることを目的として、設立されるものです。私達は、知的障害者授産施設(通所)クリエイティブハウス「パンジー」の設置運営を始めとして、障害者が一人の人間として、地域社会であたりまえに生きることができるように支援・援助を行い、また自ら実施することにより、より多くの障害者とその家族のニーズに答えていきたいと思います。さらには、社会的に弱い立場におかれている老人や子供等の活動を支援・援助することにより、多くの人々との連帯を求めることを課題とします。
1991年9月27日 『社会福祉法人創思苑 設立趣意書』
一方、今や世界有数の経済大国と言われる日本においても、障害者に対する差別は根深く存在しています。1981年の「国際障害者年」以降、障害者が健常者と共に地域社会で生きることをめざすノーマライゼーションの思想は着実なひろがりをみせつつありますが、それを裏づける為の制度的・財政的保障は未だ不十分と言わざるをえません。
1986年に東大阪市の中地区でスタートした自立の家「つばさ」は、地域の一般校や養護学校を卒業した障害者が、孤立を余儀なくされている現状をふまえ、障害者と健常者が地域で共に働き、一般就労への準備を整え、さらには誰もが安心して暮らせる差別の無い地域社会をめざして活動を続けてきました。さまざまな活動の積み重ねの結果、地域の人々の障害者に対する理解は、徐々にではあれ深まってきているように思われます。また仲間達の自立に向けた意欲や自信も増し、今では4人の障害者が親元から離れて自立生活を送り、それとは別に、4人の知的障害と言われる仲間がグループホームを利用して共同生活を開始しています。
社会福祉法人創思苑は、自立の家「つばさ」の6年間の活動の基盤の上に、「つばさ」の活動の理念をさらに発展させ実現させることを目的として、設立されるものです。私達は、知的障害者授産施設(通所)クリエイティブハウス「パンジー」の設置運営を始めとして、障害者が一人の人間として、地域社会であたりまえに生きることができるように支援・援助を行い、また自ら実施することにより、より多くの障害者とその家族のニーズに答えていきたいと思います。さらには、社会的に弱い立場におかれている老人や子供等の活動を支援・援助することにより、多くの人々との連帯を求めることを課題とします。
1991年9月27日 『社会福祉法人創思苑 設立趣意書』
posted by パンジー at 19:25
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